この知恵で考えられること
ここで言う安定は、優しい世界とか、世の中でよく言われる「自分らしさ」みたいな話ではない。
ここでいう安定とは
そいつがあたりまえにそいつとして生きている状態のこと。
ここで言う安定は、優しい世界とか、世の中でよく言われる「自分らしさ」みたいな話ではない。
鈴虫がぴょんぴょんして、草をむしゃむしゃして、ひゃんひゃんと鳴いて、それを見た人が「ああ、秋だな」と思うように、ひとりの個人があたりまえに個として生きている。
その状態を安定と呼びたい。
安定とは、感情が常に穏やかであることでも、生活が外側から見て整っていることでもない。
むしろ、生活者としての自分、職人としての自分、共感者としての自分、この三者が噛み合い続けていることに近い。
1.人は一人の生活者である
人はまず、生活者である。
食べる、寝る、体調を整える、家を保つ、人間関係を調整する、今日を越えて明日を迎える。そういう当たり前の営みを続ける存在として、人は生活者である。
生活者としての安定が壊れると、人は世界に対して極端に防衛的になったり、未来を線で見られなくなったりする。
自分の過去、現在、未来が一本の線としてつながらなくなり、今この瞬間の苦しさだけが世界の全てのように感じられてしまう。
だから、人同士が個と個として話すためには、まず相手を生活者として扱う必要がある。
所属や経歴や成果ではなく、その人がどのように生きてきて、今どこにいて、これからどこへ向かおうとしているのか。その線を前提にして話すことが大切になる。
2.人は一人の職人である
ただし、人は生活者であるだけではない。人は常に職人でもある。
ここでいう職人とは、職業人という意味に限らない。
何らかのロールを担い、そのロールのプロトコル(作法や哲学や美学)に則って世界と関わっている存在のことだ。
子どもがおままごとでお母さんを演じるとき、そこにはすでに職人性がある。
「怒る」「だめと言う」「きちんとできていると認める」など、そのロールに固有の振る舞いを必死に練習している。
社会人が飲み会で「あんな部長じゃこの会社は潰れる」と語るときも、マーケターが「ここは譲れない」と言うときも、そこにはロールを生きる職人としての人格がある。
人は、自分が何のロールを担っているのかを同定(自認して1つの認識を持つ状態に)できる必要がある。
そして、そのロールに理解のある人間との協議や共有が定期的に必要になる。
なぜなら、ロールは自分ひとりの内側だけでは成立しないからだ。
- 自分のやっていることが現世に存在するロールであること。
- そのロール特有の悩みや精進や課題が、誰かに通じるものであること。
その2つをいつも確認できることで、人は職人として前に進み続けられる。
生活者として健康でも、職人としての自分が誰にも見られていなければ、人は少しずつ壊れる。
人は一人の共感者である
さらに、人は一人の共感者でもある。
共感者とは、利害関係から離れて、あるテーマについて論じたり、味わったり、観測したり、浸ったりする人格のことだ。
それは自己保存のためでもない。生活を守るためでもない。職業上のロールを果たすためでもない。
ただ「好き」が王様になる世界を生きる人格である。
- 音楽を聴く。
- 虫の声に耳を澄ます。
- 誰にも説明できない文章に惹かれる。
- 映画の一場面を何度も思い返す。
役に立つわけではないが、なぜかずっと気になる。そういう領域を担当しているのが共感者である。
この人格がないと、人はすべてを生活の損得か、職人としての成果に変換してしまう。
趣味すら「何の役に立つのか」と評価し始める。
そうすると、自己の中から余白が消える。
共感者は、自己の余白であり、世界を利害抜きで観測するための人格である。
安定とは三人格が噛み合い続けること
つまり安定とは、生活者、職人、共感者の三者が独立して存在することではない。
三者が総合的に「そいつ」として噛み合い続けている状態である。
生活者が安定しているから、職人は継続して精進できる。職人としての実感があるから、生活者としての自己肯定感も支えられる。
共感者が世界を利害抜きで味わうから、職人には創造性が供給され、生活者には情緒の余白が生まれる。
この三者のどれか一つだけが肥大しても、人は安定しない。
生活者だけになると、ただ維持するだけになる。職人だけになると、成果やロールに自己を吸われる。
共感者だけになると、世界に浸ることはできても生活や責務を運転できなくなる。
安定とは、この三者が互いを殺さず、互いに支え合いながら回り続けている状態である。
「個と個」として人と話すということ
個と個として話し合う対話では、この三人格を常に目の前にしているという視点が欠かせない。
たとえ相手が生活の話をしているように見えても、そこには職人としての自負や、共感者としての好みが混ざっている。
たとえ職業上の相談をしているように見えても、その背景には生活者としての不安や、共感者としての違和感がある。
本人がどれか一つの人格で話しているつもりでも、実際には三つともが総合的に「そいつ」としてしゃべっている。
もちろん、相手の三人格すべてを完璧に理解することなど不可能である。ただ、自分が相手のどの人格に対して明るいのか、どこなら想像がつくのかを意識するだけでも、対話はかなり変わる。
生活者としての相手を見ているのか。職人としての相手を見ているのか。共感者としての相手を見ているのか。
その視点を持つことが、個を個として扱うための最低条件になる。
余談
社会課題の根はどこにあるのか
日本において、職業、貧困、未婚率、少子化、高齢化は、単体ではさほど問題ではないのかもしれない。
それらは現象であって、問題の本体ではない。
本当に問うべきなのは、
- なぜその状態を人は不幸だと思うのか。
- そして、その不幸という認識から生まれる行動が、なぜ他者の幸福や平穏まで奪うのか。
ということ。
テンプレートライフへの葛藤を生み出しているのは他人ではなく本人
人がテンプレート化された人生を基準に自分を測るとき、そこには劣等感や優越感が生まれる。
未婚だから不幸、子どもがいないから不幸、収入が低いから不幸、標準的な経歴ではないから不幸。
そうした認識が内面化されると、人は自分を守るために他者を攻撃したり、他者を下げたり、他者の平穏を奪ったりする。
問題は状態そのものではなく、その状態を不幸と読む認識の方にある。
そしてその認識は、生活者、職人、共感者のいずれか、あるいは全部がうまく噛み合っていないときに強くなる。
関係性は精神のインフラ
人が安定するためには、いくつかの条件がある。
- 過去、現在、未来を線で見て継続的に話が誰かとできること。
- 所属や経歴ではなく、個として扱われ、テンプレートライフを基準にした劣等感や優越感を持ち込まれないこと。
- 口頭で出てくる言葉だけでなく、姿や行動や面持ちも含めて見られていること。
- さらに、その人が担っているロールを理解してくれる相手がいること。
- そして、利害や成果から離れた本当の好みを共に味わえる余地があること。
これは単なる「仲の良い関係」ではなくて、精神的健康のためのインフラである。
世界平和という粒度ではなく、少なくとも一定の先進国においては、この条件が揃う関係性をどうやったら全員が持てるのかを考える必要がある。
なぜなら、この関係性がないことは本人だけの問題に留まらないからだ。
その欠損は、本人の振る舞いを通じて、必ず誰かにマイナスに影響する。
終わり
ひとりの個人の中にいる生活者、職人、共感者が、互いに殺し合わず、噛み合い続けていること。
そして、その総体としての「そいつ」が、あたりまえにそいつとして生きていること。
個と個として話すとは、その三人格すべてを目の前にしていると忘れないこと。
これは自分が自分と対話する時にこそ最も大事。
完全に理解することはできない。
それでも、相手の生活者に触れているのか、職人に触れているのか、共感者に触れているのかを意識するだけで、対話は変わる。
人間の中に三層があるから、社会にも三層がある。
世界全員をひとつの脳みそのように見たとき、そこに生活の経済、職人の経済、共感の経済が現れるのは、自然なことなのだと思う。
安定とは、その三層がひとりの中で噛み合い続けること。