この知恵で考えられること
人と人との関係を説明するとき、私たちはかなり強く「リレーション」を使ってきた。
人と人との関係を説明するとき、私たちはかなり強く「リレーション」を使ってきた。
- 友達
- 恋人
- 夫婦
- 親子
- 上司と部下
- 同僚
- 顧客と提供者
二人の間にどんな関係が成立しているのかを、一つの共通した名前で表す。
社会を運営する上では、これはかなり便利だった。
ただ、実際の人間同士の関係は、それだけではかなり情報が落ちる。
最近は、関係性として「リレーション」だけではなく、エッジそのものを扱える社会に変わってきているように思う。
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リレーションは、二人の間に共通の関係を置く
「私たちは何なのか」を定義する
リレーションは、
私とあなたは、こういう関係です。
という形を取る。
恋人なら、二人とも「付き合っている」と認識する。
夫婦なら、本人たちだけでなく社会からも夫婦として扱われる。
上司と部下なら、お互いにその役割を前提として行動する。
つまりリレーションは、二人の間に共有された関係定義を置く。
関係を定義すると、期待や役割も生まれる
リレーションには名前だけではなく、その関係に付随する期待がある。
恋人なら、
- これくらい連絡する
- 困った時は助ける
- 他の人とは一定の距離を取る
- 記念日は大事にする
上司と部下なら、
- 指示する
- 報告する
- 評価する
- 育成する
といった役割が生まれる。
つまりリレーションは、
関係を分かりやすくする代わりに、その関係の「標準的な振る舞い」も持ち込む。
これは共同生活や責任分担をするにはすごく便利。
一方で、実際に二人の間で起きていることよりも、「その関係なら普通こうする」が強くなることもある。
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エッジは、単なる接続ではなく「方向性を持った意味づけ」
AとBがつながっているだけでは、エッジではない
エッジというと、ネットワーク図の線のようなものを想像しやすい。
AとBが知り合いである。
フォローしている。
連絡先を持っている。
同じ会社にいる。
でも、ここでいうエッジは単なる接続ではない。
Aから見たBに、どんな意味が発生しているのか。
そこまで含めてエッジと考える。
たとえば、
- 私はあなたの作るものを面白いと思っている
- 私はあなたと話すと知らない世界を知れる
- 私は困った時、この領域についてあなたを頼る
- 私はあなたの変な判断をずっと面白がっている
- 私はあなたが次に何をするのか見ていたい
これは全部、AからBに向かっている。
BからAに同じ意味が発生している必要はない。
エッジには向きがある
ここがリレーションとの大きな違いだと思う。
「私たちは友達」というのは、二人の間の共有された定義。
一方、
私はあなたのここを面白がっている。
は、私からあなたへの意味づけ。
相手から見た私は、
- 一緒に遊ぶ人
- 仕事を相談する人
- 昔からいる人
- なぜか定期的に会う人
かもしれない。
つまり、同じ二人の間でも、
A→BとB→Aでは、違うエッジが存在できる。
人間関係の実態は、むしろこちらに近い。
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一つのリレーションの中には、本来は何本ものエッジがある
「友達」という言葉だけでは、ほとんど何も分からない
友達と言っても、
- 一緒に旅行する友達
- 思考を交換する友達
- くだらない話しかしない友達
- 年に一度しか会わない友達
- 一緒にものを作る友達
- 人生の続きをずっと見ている友達
では、かなり違う。
全員「友達」というリレーションでは同じになる。
でもエッジとして見ると、
この二人の間では、実際に何が意味として発生しているのか
が見える。
人全体ではなく、部分に対して関係を持てる
これは結構重要だと思う。
誰かと関係を持つからといって、その人全体を引き受ける必要はない。
- この人の思想は好き
- 一緒に仕事をすると面白い
- 生活を共にしたいとは思わない
- この活動だけはずっと追っていたい
- このテーマについてだけ話したい
でも成立する。
リレーションは人と人を大きな単位でまとめる。
エッジは、
その人のどの部分が、自分にとってどういう意味を持っているのか
を扱える。
エッジは、相手を定義しなくていい
「あなたはこういう人」と「私はこう見ている」は違う
たとえば、
あなたは本当に自由な人だよね。
と言うと、相手そのものを定義している。
一方で、
私は、あなたが普通ならやらないことを急にやるところを面白がっていた。
なら、自分の観測について話している。
この違いは大きい。
前者は、相手に「自由な人」であり続けることまで少し要求してしまう。
後者は、
私から見たあなたには、この意味があった。
と言っているだけ。
「これからもこうして」ではなく「続きを見られたら嬉しい」
未来についても同じ。
これからも変わらないでね。
これからもずっとこうしてね。
と言うと、関係から相手の未来に期待を置く。
でも、
私はこの続きを見られたら嬉しい。
なら、相手の未来は相手に残したまま、自分の関心だけを伝えられる。
エッジは、
相手を拘束せずに、相手への意味を持つ
ことができる。
これまで社会は、エッジよりリレーションを扱う方が得意だった
制度にとっては、共有された関係の方が扱いやすい
社会制度からすると、
私はこの人の人生を10年間ずっと面白がっている。
という情報はほとんど使えない。
一方で、
- 配偶者
- 親
- 子
- 雇用主
- 従業員
なら扱いやすい。
誰が誰に対して、
- 何をするのか
- 何を請求できるのか
- どこまで責任を持つのか
を決められるから。
そのため社会は、人間関係をリレーションとして表現する技術をかなり発達させてきた。
強いエッジが存在していても、社会からは見えなかった
たとえば、
- 10年間ずっと活動を追っている
- 人生の節目には必ず連絡する
- 年に一度しか会わないが、その人のことをかなり大事にしている
- 仕事上の関係はないが、互いの創作をずっと見ている
という二人がいる。
そこには明らかに何かがある。
でも「家族でも恋人でも仕事仲間でもない」となると、その関係は社会的にはかなり薄く見える。
実態がなかったのではなく、エッジを表現する方法が乏しかった。
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今は、エッジをそのまま維持しやすくなっている
同じ場所や所属を共有しなくても、意味は続く
インターネット以降、人との関係はかなり変わった。
毎日会わなくても、
- 投稿を見る
- 作品を見る
- 活動を追う
- ときどき反応する
- 数年ぶりに連絡する
ことができる。
同じ会社にいる必要もない。
同じ地域にいる必要もない。
毎週会う必要もない。
それでも、
私はこの人のここを見ている
というエッジは維持できる。
人間全体ではなく「この続きを見る」が可能になった
たとえば、
- この人の研究をずっと追っている
- この人の起業の続きを見ている
- この人の文章だけ読んでいる
- この人の子育ての考え方だけ好き
- この人が何を作るかだけ気になる
という関わり方が普通にできる。
これは「その人との関係を持つ」というより、
その人に対して発生している特定の意味を持ち続ける
に近い。
人間関係を保つために、人間全体を高解像度で把握する必要がなくなっている。
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名前のない関係も、そのまま存在させられる
「結局この二人は何なの?」に答えなくてもいい
友達なのか。
恋人なのか。
仕事仲間なのか。
家族なのか。
既存のどれにも完全には当てはまらない関係は昔からあった。
ただ、リレーションしか扱えないと、
結局この二人は何なの?
という問いに答える必要があった。
エッジで見れば、
- 一緒に暮らしている
- 恋愛感情はない
- 困った時は助け合う
- 仕事もたまにする
- 相手の人生はかなり気にしている
という状態を、そのまま保持できる。
一つの関係名にまとめる必要がない。
関係名より、そこにある意味を見る
「何関係なのか」ではなく、
- 何を見ているのか
- 何を面白がっているのか
- 何を頼っているのか
- 何を交換しているのか
- 何の続きを見たいのか
を見る。
すると、
リレーションとしては名前がないが、かなり強いエッジが存在する
という関係も普通に扱える。
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リレーションからエッジへ、ではない
リレーションにはリレーションの役割がある
家族、夫婦、会社、チーム。
共同生活や共同責任がある場面では、関係を共通定義する必要がある。
- 誰が責任を持つのか
- 何を約束するのか
- 何を分担するのか
- 何を相互に期待していいのか
を決めるなら、リレーションは強い。
だから、これからリレーションが不要になるわけではない。
社会が扱える関係性の解像度が増えている
変わっているのは、
リレーションだけが関係性ではなくなっている
ということだと思う。
これまでは、
- 友達か、友達ではないか
- 恋人か、恋人ではないか
- 家族か、他人か
- 仲間か、そうではないか
のように、人と人との間を関係名で扱うことが多かった。
そこに、
私はあなたを、どういう意味を持った存在として見ているのか
というエッジの情報を加えられるようになる。
同じ二人の間にも複数のエッジがあり、方向によって意味も違う。
名前のない関係にもエッジはある。
一方通行でもエッジはある。
関係そのものが変わっても、残り続けるエッジもある。
人間関係が複雑になったというより、
昔から複雑だった人間関係を、ようやくリレーション以外の単位でも扱えるようになってきた。
そう考えた方が近い。
これからの社会は、人と人を「何関係か」だけで整理するのではなく、
誰が、誰に、どんな方向の意味を持っているのか。
そのエッジまで関係性として扱える社会になっていくのだと思う。