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環世界/認知/人間/共生思考・診断の型

ラーニング・リプレイスメント──乙な大人は、古い学びを捨てるのではなく、新しく学び直す

仕事で失敗すれば、次は失敗しない方法を覚える。人間関係で傷つけば、傷つかない距離の取り方を覚える。何かをして評価されれば、それを自分の強みとして使うようになる。

この知恵で考えられること

仕事で失敗すれば、次は失敗しない方法を覚える。人間関係で傷つけば、傷つかない距離の取り方を覚える。何かをして評価されれば、それを自分の強みとして使うようになる。

人は、生きながら学習している。

仕事で失敗すれば、次は失敗しない方法を覚える。人間関係で傷つけば、傷つかない距離の取り方を覚える。何かをして評価されれば、それを自分の強みとして使うようになる。

こうした学習の多くは、意識的に勉強した結果ではない。

そのとき置かれていた環境で、少しでもうまく生きるために身につけたものだ。

だから、長く使われた学びには理由がある。

ところが、人間は変わる。能力が増える。立場が変わる。周囲の人間も、技術も、経済環境も変わる。かつて手に入らなかった選択肢が手に入ることもある。

それでも、過去に身につけた学びは残り続ける。

ここで起きるのが、いわゆる「アンラーン」の問題なのだと思う。

ただ、アンラーンという言葉には少し注意が必要だ。

人は、本当に古い学びを「捨てる」のだろうか。

むしろ実際に起きているのは、

新しい経験によって新しい学習が成立し、それまで唯一の正解だった学びが、数ある選択肢の一つに降りていくこと

なのではないか。

ここでは、この現象を仮に**ラーニング・リプレイスメント(Learning Replacement)**と呼ぶ。

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人は必要だったから学んだ

長く残っている学びほど、かつては役に立っていた可能性が高い

大人になってから、自分の癖に困ることがある。

何でも自分でやってしまう。人に頼れない。評価を気にしすぎる。意味のあることをしようとする。所属している世界から離れられない。自分の職業や肩書きに必要以上に自分を重ねる。

外から見ると、「そんな考え方は手放せばいい」と思えることもある。

しかし、本人にとってはそう簡単ではない。

なぜなら、それは単なる誤解ではなく、過去のどこかで実際に機能した学習であることが多いからだ。

自分でやった方が成果が出たから、自分でやるようになった。

人を笑わせたら攻撃されなくなったから、笑わせる人になった。

頑張ったら評価されたから、頑張り続ける人になった。

自分の生活を公開すると人とつながれたから、公開するようになった。

東京にいると刺激的な人や仕事に出会えたから、東京にいることに価値を感じた。

これらは、その時点では合理的だったのかもしれない。

問題は、学んだことそのものではない。

環境が変わったあとも、その学びが唯一の正解として残り続けることにある。

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学びには賞味期限がある

人間が変わっても、学習は自動では更新されない

若い頃には、自分で全部やることで急速に能力が伸びることがある。

大量に仕事を引き受け、無理やり遂行する。その過程で理解力も実行力も鍛えられる。

その経験から、「自分でやれば前に進む」という学習が成立する。

さらに長く続けば、

「自分は遂行することで価値を出す人間だ」

という自己認識にまで発展するかもしれない。

ところが、その後、状況が変わる。

  • 本人の能力が上がる。
  • 人に教えられるようになる。
  • AIによって説明や知識伝達のコストが下がる。
  • 自分が一時間対話するだけで、相手が数日分前に進むようになる。
  • 一方、自分で遂行する仕事には以前ほど新鮮さを感じなくなる。

ここで、

「もっと上手に遂行するにはどうすればいいか」

と考え続けることもできる。

  • 契約を改善する。
  • 期待値を調整する。
  • プロジェクト管理能力を上げる。
  • 飽きない工夫をする。

どれも間違いではない。

しかし、場合によっては問いの方が古くなっている。

必要なのは遂行方法の改善ではなく、「自分の価値は遂行にある」という学習そのものの更新かもしれない。

これは「昔の自分は間違っていた」という話ではない。

昔はそれでよかったのである。本人が成長したから、昔の正解が狭くなった。

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アンラーンは、忘却とは少し違う

古い学習を消すより、新しい学習が競合する

この見方には、学習心理学との興味深い対応がある。

条件づけ研究では、一度成立した学習が「消去」によって完全に消えるわけではないと考えられている。

たとえば、

  • ある刺激のあとに嫌なことが起きる経験を繰り返せば、その刺激に対する反応が学習される。
  • その後、「この刺激があっても、もう嫌なことは起きない」という経験を繰り返すと反応は弱くなる。
  • しかし、最初の学習そのものが完全に消えたとは限らない。
  • 条件や文脈が変わると、古い反応が再び現れることもある。

つまり、起きているのは単純な削除ではなく、古い学習と競合する、新しい学習の成立として理解できる。

人間の複雑な人生上の学習を、そのまま条件づけと同一視することはできない。

それでも、古い学びを消すのではなく、「別のやり方でも大丈夫だった」という経験によって、新しい反応可能性を獲得する

という構造には共通点がある。

ここから考えると、アンラーンを「捨てる技術」とだけ考えるのは少し危うい。

新しい経験なしに、

  • 「承認欲求を手放そう」
  • 「完璧主義をやめよう」
  • 「もっと人に任せよう」
  • 「肩書きにこだわるのをやめよう」

と言われても、本人の世界には代替物が存在しない。

それまで生存に使ってきた道具だけ取り上げられる。

これでは、説教にはなっても、再学習にはなりにくい。

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ラーニング・リプレイスメント

「これをやめる」より先に、「こっちでも生きられる」が必要になる

ラーニング・リプレイスメントは、おそらく次のように進む。

1.古い学習がある。

それは過去の環境では機能していた。

2.本人や環境が変化する。

それでも古い学習は残っている。

3.違和感が生まれる。

好きなはずなのに苦しい。同じ問題を何年も考えている。頑張っているのに、以前ほど進んでいる感じがしない。

4.少し違う行動を試す。

別の仕事の仕方をする。一人で過ごす。人に任せる。手作業をする。地方で暮らしてみる。本業にしない創作をする。AIを使う。友達と遊びとして始める。

5.予想していなかった経験が起きる。

「これでも大丈夫だった」「こっちの方が好きかもしれない」「思ったより自分にはできる」「別に失わなかった」「欲しかったのはこれだったのかもしれない」

というデータが入る。そこで初めて古い学習を相対化できる。

「あれは間違っていた」ではない。**「あれしかないと思っていたけれど、そうではなかった」**になる。この違いは大きい。

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欲しいものにも、古い名前がついている

「xxがしたい」は、まだ欲求そのものではない

再学習が必要なのは、行動だけではない。

自分が何を欲しているのかについても、人は学習している。

  • 「演劇をやりたい」
  • 「デザインがしたい」
  • 「東京にいたい」
  • 「起業したい」
  • 「ものづくりがしたい」
  • 「事業部長になりたい」

こうした言葉は、本人にとって切実であることがある。

しかし、言葉そのものを欲求だと思うと少し危ない。

たとえは「演劇がしたい」の中には、

  • 脚本を書きたい、演者と一緒に作りたい
  • 観客の反応がほしい、文化に触れていたい
  • 演劇を語れる友人がほしい、自分が抗っている感覚がほしい、作品を世に出したい

といった異なる欲求が混在しうる。

ある時点で、それらを一番よく満たしたものが「演劇」だったのかもしれない。

だから「私は演劇が好きな人」という自己像ができる。

しかし、これは欲求そのものではなく、

欲求を満たすために、ある時点で発見した形式

である可能性がある。

形式と欲求が癒着すると、「演劇を続けるにはどうすればいいか」という問いから抜けにくくなる。

本当は、「演劇の何をこんなに欲しがっていたのだろう」と問った方が探索範囲は広がる。

そして、ときには奇妙な答えが出る。

  • 作りたいのではなく、触れていたかった。
  • 仕事にしたいのではなく、週に一度やりたかった。
  • 有名になりたいのではなく、反応がほしかった。
  • 東京が好きなのではなく、面白い人と接続していたかった。
  • 遂行したいのではなく、物事が前進する瞬間に関与したかった。

ここで欲求が変わったとは限らない。

欲求につけていた名前の解像度が上がっただけかもしれない。

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探索には種類がある

深く考えていることと、探索が進んでいることは同じではない

アイデンティティ研究には、今回の話を見るうえで面白い区別がある。

自分の進路や価値観を形成していく際の探索は、一種類ではない。

大まかには、

1.Exploration in breadth

広く別の可能性を探す。

2.Exploration in depth

すでに選んでいるものについて、本当に自分に合っているか深く確かめる。

3.Ruminative exploration

決められないまま、同じ問いを反芻し続ける。

という違いが研究されている。

この区別は、大人の停滞を見るときにも有用だと思う。

「ずっと考えている人」は、一見すると非常によく探索しているように見える。

しかし、

  • 「この仕事をどうすれば好きになれるだろう」
  • 「演劇でどう食べていけばいいだろう」
  • 「自分の強みをどう活かせばいいだろう」
  • 「東京にいる意味は何だろう」

という同じ問いを一年、二年と考え続けているなら、探索範囲そのものはほとんど変化していないことがある。

  • 情報は増えている。
  • 思考も深くなっている。
  • しかし、問いを成立させている前提は固定されたままである。

これは重要な観測ポイントになる。

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同じ論点に戻り続ける

答えではなく、問いの方が古くなっていることがある

人生には、長く考える価値のある問いもある。

だから「半年考えて解決しないなら間違い」とは言えない。

一方で、本人が解消したいと思っている問題について、環境も能力も経験も変わっているのに、何年も同じ問いに戻り続けているなら、少し別の可能性を疑ってよい。

答えが足りないのではなく、問いを作った学習が古いのではないか。

たとえば、

  • 「どうすれば自分で全部やっても疲れなくなるか」ではなく、「なぜ自分が全部やる前提なのか」。
  • 「どうすればこの職業で満足できるか」ではなく、「この職業の何を生活に残したいのか」。
  • 「どうすればもっと評価されるか」ではなく、「評価されることで何を得ようとしているのか」。

これは単なる「本質的な問いを考えよう」という話ではない。

新しい問いが本当に意味を持つのは、その問いを試せる経験が伴う場合だろう。

考え方だけ変えても、身体が知っている世界は変わらない。

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再学習には行動がいる

人間は「なるほど」で変わるとは限らない

他人との対話によって、新しい見方を知ることはできる。

「なるほど、そういう考え方もあるのか」と思う。しかし、それだけでは以前の学習はまだ強い。

  • 人に任せても大丈夫だと理解することと、実際に任せて成果が出ることは違う。
  • 一人でも満たされると理解することと、一人の夜を本当に楽しく過ごすことは違う。
  • 地方でも面白く暮らせると知ることと、実際に数週間暮らして「こっちの方が遊べる」と感じることは違う。
  • 本業にしなくても創作できると理解することと、友達と冊子を作って「これで十分楽しい」と知ることは違う。

再学習には、現実からのフィードバックが必要になる。

だからラーニング・リプレイスメントは、静かな内省だけで完結するものではない。

むしろ積極的で行動的な学習である。

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だから「ダサい」が重要になる

今の自分が賢いと思える選択肢だけでは、今の自分を超えにくい

ここで一つ厄介な問題がある。

人は、新しい行動を試すときにも、すでに持っている学習を使って選択肢を評価する。

  • 「それはキャリアにならない」
  • 「素人っぽい」
  • 「今さらそんなことをするのはダサい」
  • 「もっとちゃんとやるべきだ」
  • 「そんな小さなことをしても意味がない」
  • 「自分らしくない」
  • 「成功している人はそんなことをしない」

こうして候補を削っていく。

しかし、考えてみれば当然である。

現在の自分の評価基準そのものが、過去の学習から作られている。

だとすれば、現在の評価基準で「良い」と判定できる選択肢だけを探索しても、現在の学習の外側には出にくい。

ここで「ダサい」という感覚が面白い指標になる。

ダサいものが正しいわけではない。

無意味なことも、単に合わないこともある。

しかし、現在の自己モデルから見て採用価値が低く見えるもの、

その中には、現在の自己モデルを更新するためのデータが含まれている可能性がある。

だから、ダサいことを積極的に信仰する必要はない。

ただし、**ダサいという理由だけで探索候補から落とさない。**これは再学習のための、かなり実務的な原則になる。

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ダサい行動は、探索空間を広げる

「本業にする」以外にも、欲求を検証する方法はある

創作したい人がいるとする。

現在の自己モデルが強ければ、就職する、プロになる、劇団に入る、出版する、独立する。

といった「ちゃんとした」ルートばかりが候補になる。

しかし、探索としては、

  • 友達と冊子を作る。
  • 匿名で作品を出す。
  • 月に一度だけ舞台に関わる。
  • 素人として木彫りを始める。
  • 誰にも見せずに作る。
  • 期間限定でYouTubeをやる。
  • 仕事とは無関係な人と小さなイベントをする。

でもよい。

こうした行動は、キャリアとして見ると中途半端に見えることがある。

しかし、探索として見れば優秀である。

なぜなら、「本当に欲しかったのは何か」を安価に検証できるからだ。

  • 職業にしたかったのか。
  • 作りたかったのか。
  • 人に見せたかったのか。
  • 反応がほしかったのか。
  • 仲間がほしかったのか。
  • 触れ続けたかったのか。
  • 自分の生活にその質感が存在すればよかったのか。

頭の中では区別しにくかったものが、行動すると分かれてくる。

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Sandbox、砂場で遊ぶ子供のように。

自己像を賭けずに、別の自分を仮運用する

この探索を助けるものとして、Sandboxという考え方が使える。

ここでいうSandboxは、単なる「失敗しても大丈夫な場所」ではない。

現在の自己像によって普段は除外されてしまう行動を、一時的に試せる環境

である。

  • 期間を決める。
  • 友達とやる。
  • 途中でやめてよいことにする。
  • 金にしなくてよい。
  • 成果物を公開しなくてよい。
  • 肩書きにしなくてよい。
  • 上手くならなくてよい。
  • 本業にしなくてよい。

こうすると、「これは自分の人生として正しい選択なのか」という巨大な判断をしなくて済む。

ただ、この自分を数週間だけ生きてみることができる。

possible selves

アイデンティティ研究には possible selves、つまり「なりうる自己」という考え方がある。

Sandboxは、それを想像だけでなく、部分的に実演する場所とも考えられる。

  • 兼業農家の自分。
  • 相談役として働く自分。
  • 東京以外に住む自分。
  • 誰にも見せずに作る自分。
  • 意味のない本を友達と作る自分。

こうした自己を一時的に運用してみる。すると、思考だけでは得られない情報が返ってくる。これは遊びではなく真剣な姿だと私は思う。

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満たされることも、探索の技術になりうる

不足しているとき、人は今の世界を守りやすい

再学習について考えると、「満たされる」という状態にも別の意味が見えてくる。

満たされること自体を人生の目的にする必要はない。

しかし、一時的に満たされることは、探索の条件になりうる。

人は不足しているとき、現在持っているものを強く守る。

  • 仕事を失いたくない。
  • 評価を失いたくない。
  • 人とのつながりを失いたくない。
  • ここまで積み上げたものを無駄にしたくない。
  • 自分が何者か分からなくなるのが怖い。

この状態で「本当にこれは欲しいのか」と問うのは難しい。

一方、

  • 美味しいものを食べる。
  • 風呂に入る。爪を切る。
  • 洗濯物を畳む。安心できる家で眠る。
  • 誰にも説明しない手作業をする。
  • 一人で楽しく過ごす。
  • 信頼できる人とくだらないものを作る。

そうして一度「まあ、今も悪くない」と思えると、少しだけ世界を失う恐怖が弱くなる。

そのとき初めて、

「別に、これじゃなくてもいいのか」

と考えられることがある。

満たされるとは、思考停止ではない。

場合によっては、

古い学習を防衛しなくてもよい程度まで、安全を回復すること

でもある。

ガードを下ろせば視界は正常化する。

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「満たされている」と「欲しいものがない」は違う

足りているからこそ、次の興味が見えることがある

不足は行動を生む。

だから、不足している方が成長できるという考え方にも一理ある。

しかし、不足は探索範囲を狭めることもある。

  • 評価が足りなければ、評価されるものばかり探す。
  • 金が足りなければ、金になるものばかり見る。
  • 所属感が足りなければ、所属できる場所ばかり見る。
  • 自尊心が傷ついていれば、自分の正しさを証明できるものばかり見る。

満たされることで、これらの緊急性が少し下がる。

すると、

「何を失いたくないか」ではなく、

「何に触れてみたいか」が見えやすくなる。

これは、味わう力の回復とも言えるかもしれない。

世界を不足を埋める材料としてだけ見なくなったとき、目の前の差異や快や興味を、そのまま受け取れる余地が増える。

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社会は、欲しいものの名前も勝手に教えてくる

自分の欲望の中には、所属してきた世界の価値序列も入っている

ここでは社会学の視点も役に立つ。

Pierre Bourdieuの habitus という概念では、人は社会環境の中で、「何が自然か」「何を望むべきか」「どう振る舞うものか」といった傾向を身体化していくと考える。

さらに、環境が変化したのに、過去の環境で形成されたhabitusが残り、ズレが生じる現象は hysteresis として論じられてきた。

これは今回の問題とよく似ている。

  • 東京にいること。
  • 大企業に入ること。
  • デザイナーとして食べること。
  • 事業部長になること。
  • 自分の名前で作品を出すこと。
  • 年収を上げること。

これらを本人が本当に望んでいる場合も当然ある。

一方で、

かつて所属していた世界では、それが「上に進んでいる」と認識される指標だった

ということもある。

その世界を離れたあとも、指標だけが残る。

すると、別の場所で十分に面白く生きられる可能性が見えても、

「レースから降りる感じがする」

という違和感が起きる。

これは単なる非合理とは限らない。

その人が長く生きてきた世界では、本当にそれがレースだったのである。

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強みの中にも、過去の生存戦略が混ざる

「できること」と「その人らしさ」は同じではない

他人から見た強みも、注意して扱う必要がある。

  • 人を笑わせるのが得意。
  • 何でも一人で遂行できる。
  • 場の空気を読む。
  • 誰よりも責任を持つ。
  • 相手に合わせられる。
  • いつも明るい。

これらは本当にその人の性質かもしれない。

しかし、場合によっては、

ある環境を生き抜くために非常によく学習された行動

である。

本を読んで静かに過ごしたかった子供が、いじめられないために一発ギャグを覚えたとする。

周囲からは、

「お前の強みは人を笑わせることだ」

と言われるかもしれない。

本人自身も、長くそう思うかもしれない。

しかし、それが上手いことと、それを一生使いたいことは別である。

ラーニング・リプレイスメントは、ときに「強みを捨てる」ように外から見える。

実際には、強みだと思っていたものの由来と適用範囲を知ることなのかもしれない。

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学習は、自己像になる

役に立ち続けた方法ほど「私はこういう人」に変わっていく

学習が長く成功すると、それは方法ではなくアイデンティティになる。

「私は自分でやる人だ」

「私はクリエイターだ」

「私は都会で生きる人だ」

「私は挑戦する人だ」

「私は人の役に立つ人だ」

こうなると、方法を変えるだけでも自己否定のように感じる。

だから、古い学習から離れるときには妙な喪失感がある。

能力を失うわけでもない。

過去を否定する必要もない。

それでも、「じゃあ私は何なんだ」という空白が生まれる。

アイデンティティ研究で、既存のコミットメントを再検討し、別の可能性を探索する過程が重要視されてきたのは、このためでもある。

大人の再学習には、単なるスキル変更以上の重さがある。

方法を変えることが、自分についての説明を変えることになるからだ。

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だから、昔の自分を否定しなくていい

ラーニング・リプレイスメントは、過去を敗北にしない

ここは大切にしたい。

新しい生き方が見つかったからといって、古い生き方が間違っていたことにはならない。

何でも自分で遂行してきたから、今の能力があるかもしれない。

  • 東京にいたから、今の人間関係があるかもしれない。
  • 評価を求めたから、作品を作り続けられたかもしれない。
  • 人に合わせたから、危険な時期を抜けられたかもしれない。

古い学習には、それが生まれた事情がある。

だから、

「こんな思い込みを持っていた自分は愚かだった」

と考える必要はない。

むしろ、

あれで、ここまで来た。 ただ、ここから先は別のものが使えそうだ。

くらいが自然なのだと思う。

これは過去との決別というより、適用範囲の理解である。

学びが遅いと感じるならば、自分の前進を過度に否定しすぎている可能性もある。

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大人の学習は、足すことから置き換えることへ移っていく

レベルが上がるほど、「もっと知る」だけでは変化が小さくなる

子供や初心者の学習では、知識を増やすことがそのまま大きな変化になる。

知らなかった言葉を知る。

道具の使い方を覚える。

基本的なルールを理解する。

レベル1から10までは、足し算の学習がよく効く。

しかし経験が増えるほど、すでに大量の知識と方法を持っている。

すると、

「こういう方法もあります」

と聞いても、

「なるほど、それもあるね」

で終わることが増える。

大きな変化が起きるのは、

「あれ、そっちなのか」

「これ、もう要らないのか」

「自分がやっていたことって、こういうことだったのか」

と、既存の構造そのものが組み替わったときである。

葉っぱが一枚増えるのではなく、

枝分かれが変わる。

ラベルが変わる。

二つだと思っていたものが一つになる。

一つだと思っていたものが二つに分かれる。

因果だと思っていたものが、単なる相関だったと分かる。

強みだと思っていたものが、生存戦略だったと分かる。

目的だと思っていたものが、手段だったと分かる。

こうした学習は、知識の追加というより構造の再編に近い。

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良い再学習は、世界を狭くしない

「正しい生き方」にたどり着くことが目的ではない

ここまでの話を、また別の正解にしてしまうこともできる。

  • 都会より地方がよい。
  • 会社員より兼業がよい。
  • 仕事に意味を求めない方がよい。
  • 一人で満たされる方がよい。
  • ダサいことをした方がよい。
  • 遂行者より相談役がよい。

しかし、それでは同じことを繰り返す。

ラーニング・リプレイスメントは、古い唯一解を新しい唯一解に交換するための思想ではない。

目的は、

現在の自分が使っている学習を見えるようにし、その適用範囲を広げたり狭めたりできること

にある。

東京が最高なら東京にいればいい。

演劇が何年経っても面白いなら、演劇をやればいい。

遂行することが楽しくて仕方ないなら、自分で遂行すればいい。

大切なのは、それが、

「そうするしかない」

なのか、

「いろいろ知った上で、やっぱりこれがいい」

なのかである。

後者なら、同じ行動をしていても自由度は違う。

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学習が更新され続ける状態

「やりたいことを見つけた」より、「まだ見えるものがある」

人間には、最終的な「本当にやりたいこと」が一つ存在するのだろうか。

それは分からない。

一生を捧げられる対象を見つける人もいる。

いくつもの対象を渡り歩く人もいる。

生活そのものを面白がる人もいる。

何か一つの答えを想定しなくてもよいのかもしれない。

むしろ健全な状態の一つは、

向かいたい方向に動いていると、その先でまだ知らなかったものが見え続けること

なのではないか。

やってみる。

何かを知る。

少し自分が変わる。

昔の学習が合わなくなる。

別の方法を試す。

思いがけず満たされる。

欲しかったものの名前が変わる。

また動く。

この循環が続いている間、人は必ずしも「人生の答え」を持っていなくても、停滞している感じは少ない。

逆に苦しいのは、

動いているのに、何年経っても同じ問いに帰ってくること

なのかもしれない。

人生を味わえず、止まった世界に自分がいるような感覚にも陥る。

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ラーニング・リプレイスメント

人は、過去の学びを捨てながら生きるのではなく、使える世界を増やしながら生きている

人は、何も知らない状態から毎回人生を選び直しているわけではない。

過去の学習を使って今日を生きている。

だから、学習は必要である。

同時に、学習した本人も世界も変化し続ける。

だから、学習はいつか狭くなる。

そのとき必要なのは、古い自分を否定することでも、正しい価値観を教えてもらうことでもない。

少し違う場所へ行く。

違う人と関わる。

別の手段を使う。

一度満たされてみる。

本業にしない。

素人として触る。

ダサいことをする。

やめてもいい状態で試す。

そうやって、現在の学習では予測できなかった経験を少しずつ増やす。

すると、ときどき、

「ああ、こっちでも生きられるのか」

という瞬間が来る。

その経験によって、昨日まで必要だったものが、急に不要になることがある。

嫌いになるわけではない。

否定するわけでもない。

ただ、唯一の道ではなくなる。

おそらくアンラーンとは、その瞬間だけを切り取った名前なのだと思う。

実際に起きているのは、もう少し連続的な現象である。

人は、生きるために学ぶ。

学んだものを使って成長する。

成長した結果、その学びが合わなくなる。

そして、新しく生きてみることで、また学び直す。

ラーニング・リプレイスメントとは、その循環を人間の欠陥としてではなく、人間が環境とともに変わり続けるための、ごく自然な学習の姿として捉えるための言葉である。