この知恵で考えられること
だからスポーツでは、その人が持っている技術や身体能力と、その試合で実際に発揮されたパフォーマンスを、なんとなく別のものとして考えている。
持っている知性と、使えている知性は違う
試合で発揮される力と、練習で発揮できる力が違う。
これはたぶん、みんな普通に知っている。
練習ではできていたことが、本番になるとできなくなる。
逆に、本番になると異様に強いやつもいる。
だからスポーツでは、その人が持っている技術や身体能力と、その試合で実際に発揮されたパフォーマンスを、なんとなく別のものとして考えている。
知性についても、同じようなことがあるんじゃないかと思う。
この記事では仮に、計測IQと実質IQと呼んでみる。
厳密な心理測定としてのIQの話をしたいわけではない。
もっと単純に、持っている知性と、その瞬間に使えている知性は違うよね。
という話をしたい。
「賢さ」は、頭の回転だけではない
ここでいう知性は、狭い意味での頭の良さだけではない。
- 知っていること。
- できること。
- これまで経験したこと。
- 普段なら使える思考プロセス。
物事を分解したり、比較したり、抽象化したり、具体化したり、別の視点から見たりすること。
そして、
- 何に気づけるか。
- どこまで深く気づけるか。
ということも含まれる。
人は、自分が持っているこれらすべてを、いつでも同じように使えているわけではない。
- 普段なら気づくことに気づかない。
- 知っているはずのことを忘れる。
- いつもなら考えられる別の可能性が見えない。
後から振り返ると、「なんであのとき、こんな簡単なことに気づかなかったんだろう」と思う。
別に、その数時間だけ知能が失われていたわけではない。
持ってはいたけれど、使えていなかった。
そういうことはかなりある。
実質IQは、その場によって変わる
何が実質IQを変えるのかは、たぶん一つではない。
- その問い。
- そのテーマ。
- 自分のステータス。
- そのときの身体や精神の状態。
- 周囲からかかっている圧力。
- そして、自分自身でかけている使命。
いろいろある。
たとえば、
「絶対に成功させなければならない」
と思っているとき。
それは強い推進力にもなる。
一方で、普段なら見えていたはずの、
- 「そもそもやる必要ある?」
- 「もっと小さく試せばいいのでは?」
- 「一回やめてもよくない?」
- 「他の人に任せた方がいいのでは?」
みたいな選択肢が見えなくなることもある。
能力がなくなったわけではない。
問いとの関係や、背負っているものによって、アクセスできる思考の範囲が変わっている。
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創造でも、学習でも、マネジメントでも、対話でも起きる
創造するときにもある。
「いいものを作らなければ」と思いすぎると、いつもなら面白がれた変なアイデアを、自分で早々に捨ててしまう。
学習でもある。
「ちゃんと理解しなければ」と焦っていると、分からないものを分からないまま観察できず、知っている概念に無理やり当てはめて理解したことにしてしまう。
マネジメントでもある。
「責任者なんだから答えを出さなければ」と思うことで、本当は分かっているはずの「今は判断材料が足りない」と言えなくなる。
対話でもある。
相手に分かってほしい。勝ちたい。嫌われたくない。傷つきたくない。
そういうものが大きくなるほど、相手が実際に何を言っているのかより、自分の中で起きていることに認知資源を持っていかれる。
もちろん、創造や学習やマネジメントや対話のすべてが、これだけで説明できるという話ではない。
ただ、その人に能力があるかどうかと、その場でその能力を使えているかどうかは分けて考えた方がいい。
というだけの話。
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「楽しんでいるやつが最強」の一側面
「楽しんでいるやつが最強」という話も、これと少し関係している気がする。
楽しんでいる人が強い理由はいくらでもある。
長く続けられるとか、たくさん試せるとか、学習量が増えるとか。
それだけではなく、楽しんでいるときは、持っている能力をそのまま使いやすいという側面もあると思う。
失敗したものを観察できる。
想定外の出来事を面白がれる。
途中でやり方を変えられる。
分からなければ人に聞ける。
変な可能性を思いついたときに、とりあえず試してみられる。
何かを証明しなければならないときよりも、ただ面白がっているときの方が、知っていることも、できることも、思考も、観察も、自由に使える。
楽しさによって突然賢くなったわけではない。
もともと持っていたものを、ちゃんと使えている。
そう考えることもできる。
心理的安全性があると、なぜ挑戦できるのか
心理的安全性について、**安全だから勇気が出て、挑戦できる。**という説明がある。
これはもちろん一つの側面だと思う。
でも、もう一つある。
安全だから、冷静に考えられる。
冷静だから、
- 何が得られるのか。
- 何を失う可能性があるのか。
- どのくらいの確率なのか。
- 失敗したらどう戻るのか。
- どこまで行ったら撤退するのか。
- 何を観測しながら進めればいいのか。
そういうものがちゃんと見える。
すると、外から見ると大胆な挑戦でも、本人からすると、
「これ、普通にやった方がよくない?」
くらいの判断になっていることがある。
勇気を振り絞ったから挑戦できたのではなく、冷静に見たら、リスクもリターンもリカバリーも見えていて、挑戦する方が妥当だった。
ということもある。
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挑戦した後も同じ
これは、挑戦するかどうかを決める瞬間だけの話でもない。
実際に何かを始めれば、だいたい想定外のことが起きる。
そのときに、
- 失敗してはいけない。
- 自分が正しかったことを証明しなければならない。
- ここまでやったのだから引き返せない。
と思っていると、本来なら気づけるはずの変化に気づけなくなる。
逆に冷静なら、
- 「あ、思ってたのと違うな」と言える。
- やり方を変えられる。
- 人に聞ける。
- 一回戻れる。
- 場合によっては、やめられる。
だから安全性は、挑戦するための勇気をくれるだけではなく、
挑戦の最中に、もともと持っている遂行能力をちゃんと使うためにも役に立つ。
そんな側面もあると思う。
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冷静ならば、必要十分に既に賢い
もちろん、知らないものは知らない。
できないことはできない。
勉強も必要だし、経験も必要だし、訓練によって伸びる能力もたくさんある。
だから「人はすでに十分な能力を持っているから、何も学ばなくていい」という話ではない。
ただ、
何かがうまくいかないとき、
僕らはすぐに、
- もっと勉強しなければ。
- もっと考えなければ。
- もっと経験を積まなければ。
- もっと賢くならなければ。
と思う。
その前に、一回だけ別の可能性を考えてもいい。
本当に、持っていないんだろうか。
それとも、
持っているのに、今は使えていないだけなんだろうか。
人は思っているより、すでにいろいろなものを持っている。
それらが全部使える状態なら、目の前にある問題のかなりの部分について、必要十分に、既に賢い。
だから賢くなろうとする前に、何が分からないのかを考えるのと同じくらい、**何が今の自分の実質IQを落としているのか。**を考えてみてもいい。
冷静になるだけで、急に見えるものがある。
新しく賢くなったわけではない。
もともと見える人だっただけなのだ。
また、冷静になっただけであることを学習した。と誤解することも、良くないよね。