この知恵で考えられること
男性性と女性性は、生物学的な性別というよりも、人間が持つ二つの人格なのではないか。
最近、男性性の使い道について考えていた。
出し先によっては確実に燃えるけど書く。
男性性と女性性は、生物学的な性別というよりも、人間が持つ二つの人格なのではないか。
.
.
.
男性性とは、
現存する手段を目的化して盲目になる力。
女性性とは、
生物としての目的を、今ある流れや手段に縛られず満たそうとする力。
.
.
.
男性性は、手段に没頭する。
女性性は、目的に立ち返る。
愛と没頭で分けるなら、愛は女性性であり、没頭は男性性だと思う。
ここに善悪の話はない。
没頭するからこそ、人は技術を磨き、競争し、文明を進められる。
愛があるからこそ、人は目的を見失わず、関係をつなぎ、生命を継続できる。
どちらも人間には必要な力。
.
.
.
だからこそ、社会は昔から、雌雄それぞれをモチーフにしたヒーロー像や基本像が存在してきたのではないか。
- 外へ出て、対象を定め、突破し、勝ち取り、完成させる人格。
- 存在を受け入れ、関係を育て、状況に応じて形を変え、生命を継続させる人格。
前者を男性性、後者を女性性と呼んできた。
本来これは、生物学的な性別そのものではなく、人間が持ちたい二つの人格像だったのではないだろうか。
.
.
.
性があり人格があるのではなく、
望む人格が2つほどあり、幾分かの適性はいずれかの性別に確かにあった。
だから社会はこの人格を、生物学的な性別と結び付けて運用していた。
男性に生まれたら男性的な人格。
女性に生まれたら女性的な人格。
.
.
.
生物学的な特徴との相性はあるのだと思う。
身体、ホルモン、生殖、育児。
本人の志向性に限らず、子供や他者が受け取る直感的な影響も相まって。
(ex.子供はお母さんに安心を感じる)
.
.
.
人格のそれは昔から「専有権」ではない。
男性だけが男性性を持てるわけでも、女性だけが女性性を持てるわけでもない。
そして今は、技術や医療や文化やサービスによって、生まれ持った身体が持つ制約を一つ一つ小さくしている。
生物学的な性として、どちらの性別で生まれても、どちらの人格にも十分なれると言える
男性性を育てることも、女性性を育てることも、人格像としては既に現実的に権利がある。
その両方を持ちながら生きることもできる。
.
.
.
だから、目指すものは「男性らしさ」でも「女性らしさ」でもなく、「中性」なのではないかと思う。
ここでいう中性とは、どちらの熱量も失うことではない。
没頭もできる。愛することもできる。
突破もできる。受け入れることもできる。
両方の憤りを理解し、両方の価値を理解し、どちらか一方だけが答えではないと知っている。
人が「人格者」と呼ぶ人は、この意味で中性的なのではないか。
オカマが話しやすかったり、男まさりな女性、女々しい男性が、どこか魅力的で面白く映ることがある。
それは、一人の中に複数の人格が共存しているからなのかもしれない。
.
.
.
ただ、それが極端になると、エンターテインメントにはなっても、共生という意味では苦しくなることもある。
結局、ここでいう男性性・女性性においては、どちらか一方だけでは社会は続かないことだけが確からしいとしていいと思う。
.
.
.
だから、フェミニズムにも男尊女卑にも未来はない。
どちらかの性の上に人格を語る方法は、方便であり構造ではない。
誰もが男性性と女性性の両方を理解し、自分で選び、必要に応じて行き来できる社会。
余裕があり、落ち着いているならば、1つの理想として中性を皆で目指せばいい。
.
.
.
ここからが主題かも。
だからこそ、自分の中にある”とある性”を楽しむ必要がある。
中性に至るにはそれを使わないも何もわかっていない。
謳歌しない限りは社会の全体がなんとなく曖昧に定義するオトコ・オンナのフリをし続けることになる。
謳歌したり、謳歌しているやつを眺めていくと気づく。
自分の中に反対の性もあるということ。
.
.
.
大人でも男子を謳歌する、女子を謳歌する。その場や機会を作る必要がある。
男性性(現存する手段を目的化して盲目になる力)、女性性(生物としての目的を、今ある流れや手段に縛られず満たそうとする力)、これを力の限りに発揮できる場所。
多分みんなが欲しいのもそれ。
そうなんだけど、デザインが下手なやり方に落ちると感覚的な溝になる。
技術や関係性や脳みそやビジネス(持続性)を勉強して、誰もが持つ性を謳歌しながら中性に向かえればいいのではないか。