この知恵で考えられること
> 煩雑さや複雑さが高い状態にある全体から、象が抽出された状態にする行為。
※社会問題を訴えるための言語化ではないです。
自分ゴトとして語彙を減らしていきたいと最近思っていて、思考メモです。
語彙の多さは必要?
きっかけとしては、
語彙力って抽象化力の反対にあるのか?
あるのかも?と思い思考を整理していた。
抽象化とは
煩雑さや複雑さが高い状態にある全体から、象が抽出された状態にする行為。
語彙力と抽象化力が反対か?
んー。
象ではなく、要素を要素言語に、投射することが主目的になってしまっているような、最適なワーディングの探索
として、語彙力を使ってしまうと、
抽象化の反対のような効果を持つ。
という感じかも。
(この文章がそれ過ぎるんだが。笑)
語彙を用いて解像度の高い情報連携は勿論あると思う。
会話や伝達とはあくまでも、象のデリバリー、象の交換だと思う。
相手の象、
自分の象、
それぞれに対して語彙力を使いすぎると、目の前にある何かを、自分の既存メモリーの組み合わせに変換してしまい過ぎるような。
つまり、イメージも意図も欠損しやすいのではないか。
そこに存在したはずの何かを取り入れられたはずの体験が失われる。
しょぼくなるというか。
欠損するというか。
ショート動画やSNSのような刹那的な消費として浪費されてしまうというか。
そういったディスコミニュケーションの原因にもなっている根本は、語彙の多用なんじゃないかと思う。
語彙力の高止まり
また、語彙力はコミュニティ内で高止まりしやすい。
饒舌なコメンテーターに囲まれながら、
うめぇ!
こっちはめっちゃうめぇ!
と言い続けられるメンタルを持つ人は希少。
結果的に、ボキャブラリーハラスメントが不必要に無自覚に横行する。
語彙の豊富さと、そのコミュニティでのその人が発揮できる価値は恐らく相関しない。
あくまでも、
複数人でコラボレーションしながら共同作業をしなければならない。
という場合に限って、語彙力の水準が揃っていた方が、コミュニケーションコストが低いように見えるだけだと思う。
語彙を用いた仕事が中心ではない人物の場合、頑張って語彙を習得して振る舞ってみたとて、ルー大柴が生産されることにもなる。
ルー大柴との言語中心の連携は、生産性を出すことも本来難しいはず。
ここまで書いてみた感想?
んー。
矛盾するんだけど、まず、自分はめちゃめちゃ語彙に助けられている。
Input・Outputの両方で明日から語彙が半分になったら何も出来なくなりそう。
語彙を獲得することで、脳内にあった何かを1個1個、似たものを別のものとして、相対的に扱える根源的な力である。
自分の場合は、
生まれつき目がかなり悪いので、映像や画像の存在感が元から弱いというのはある。
産まれてからメガネをかけ始めるまでの6年間は、音・観念・概念・雰囲気・言語を通して世界を理解するしかなかったことも大きいように感じる。
という上で、前半に書いた通り、他者との意思疎通において、ボキャブラリーを1/3くらいまで落とせないか実験してみようと思っている。
なんかそうしないと自分の創造の限界値が伸びない気がしている。