この知恵で考えられること
人間が生きる上で必要としてきた「ある社会的な機能」は、現代では何によって担われるべきなのか、という問いである。
この問いは、宗教や信仰についての問いではない。
人間が生きる上で必要としてきた「ある社会的な機能」は、現代では何によって担われるべきなのか、という問いである。
1. 現代に表れている症状
現代では、多くの人の生活と関係性は強く結び付いている。
仕事、学校、組織、家庭、SNS。
生活を支えるものの多くは、何らかの利害関係の上に成立している。
そのため、人は仕事や責任そのものに苦しむというより、
利害関係が関係性そのものへ接続されてしまう構造
の中で生きることになる。
仕事で成果が出ない。
役割を果たせない。
期待に応えられない。
すると、それは単なる失敗ではなく、
- 関係が壊れるかもしれない
- 居場所がなくなるかもしれない
- 生活が維持できなくなるかもしれない
- 自分には価値がないのかもしれない
というところまで自然につながってしまう。
その結果、人は能力の問題以上に、自分の存在価値や幸福、生きる意味について考え始める。
だから社会人以降になると、多くの人が自己理解や哲学、心理学、生き方へ関心を持つ。
それは現実逃避ではない。
生活と存在が同じ土俵で揺らぐ構造の中にいるからである。
2. 人類は何を崇拝してきたのか
人類は歴史の中で、様々なものを崇拝してきた。
自然。
祖先。
国家。
王。
宗教。
神。
それぞれ信仰対象は違う。
しかし、それらが共通して果たしていた役割は一つだったのではないか。
利害関係の外側に、人間が接続できる公共性を作ること。
神は、
- 死なない
- 老いない
- 市場競争しない
- 誰かに所有されない
- 個人の評価で価値が変わらない
- 世代を超えて存在する
だから人は、
成果を出せなくても。
仕事を失っても。
人生が苦しくても。
神との関係だけは失われないという前提を持つことができた。
神は世界を説明する存在である以前に、
存在していてよいという感覚を支える公共インフラ
でもあった。
3. 神は消えたのではなく、分解された
現代は神を信じなくなった。
そう言われることが多い。
しかし、本質は少し違うのかもしれない。
現代は神を信じなくなったのではない。
当時「神」と呼ばれていた、利害関係のない公共性を担う社会インフラを分解したまま、その機能を十分に再構成できていないのである。
神が担っていた機能は、
心理学
福祉
教育
国家
コミュニティ
エンターテインメント
SNS
趣味
家族
会社
などへ分散していった。
つまり神は消えたのではない。
機能だけが分散されたのである。
4. 現代にある代替品
では現代には何があるのか。
推し。
ゲーム。
スポーツ。
子ども。
仕事。
コミュニティ。
AI。
これらは確かに神の一部の機能を代替している。
人生に意味を与え、居場所を作り、感情を共有し、没頭を生み、共同体を作る。
しかし、どれも決定的に違う点がある。
それらはすべて、利害や寿命の世界に属している。
推しは卒業する。
ゲームはサービス終了する。
会社は倒産する。
コミュニティは変質する。
AIは仕様変更される。
子どももまた、一人の独立した存在として変化していく。
つまり、現代の多くの代替品は、交換関係から完全には自由ではない。
だから神が担っていた機能を完全には代替できない。
5. 現代の機能不全
その結果、現代では評価されるためにSNSを使い、収入のために働き、役割を果たすために組織へ所属し、承認されるために発信する。
気づけば、接続しているものの多くが交換関係になっている。
もちろん交換関係は必要である。
生活は交換によって支えられる。
問題は、交換しか存在しなくなること。
交換を止めた瞬間、世界との接続まで失われたように感じる。
これが現代人の孤独や不安の正体の一つなのではないだろうか。
6. これから必要になるもの
だから必要なのは、
神をもう一度信じることではない。
新しい宗教を作ることでもない。
問いはもっと構造的である。
神が持っていた「利害や寿命から自由な公共性」を、現代では何によって実現できるのか。
それは一つのサービスではない。
一つの会社でもない。
一つのゲームでもない。
人が、成果を出さなくても、役割を失っても、人生が変化しても、なお世界との接続を失わない。
そんな公共性を持つ文化や仕組みを、現代の技術や社会の中で再設計すること。
それが、宗教の代替ではなく、神が担っていた社会的機能を、現代に実装し直すことなのかもしれない。
現代病
せんこー
うん、なんかこの話って、ま、自意識が発達しすぎた人における課題、現代の課題な気もしていて。
情報や情報社会、グローバル社会、インターネット、電気とかが、いわゆるより広い世界を割とある程度分かる、研究者とかじゃなくても、一定ばっかり目に入り、繋がれるっていう上で、
かつ、分かりやすいような世界的な戦争もなく、資源が足りないとか、パンデミックがあるわけでもない状態にあった上での現代的な人間だけが患う症状な気がしていて。
そのあたりどう思うか聞いてみたい。
あと、犬とか猫とか、熊とか馬とか牛も、人間ほどの自意識はないにしても、変化や状況を認認しているわけで、
彼らの脳内はどんな感覚なんだろうなとも思う。
なんか一生この自認の中で生きていくらと、ま、
状況脱する新世界に行くみたいな可能性もあるだろうし、
一生この自認感覚のまま、認識上で肯定をして生きていくみたいなこととか、
薬とかお祭りによって気づけば年を取っていたみたいな、くらいが選択肢になっちゃう気がするんだよね。
AI
かなりそうだと思う。
ただしこれは「現代人全般の病」というより、
差し迫った生存課題からある程度守られながら、世界全体を観測できるようになった人間に生じやすい症状
と表現するのが近そう。
戦争や飢餓や感染症が消えたわけではない。けれど、少なくとも一定の地域・階層・時期においては、目の前の生命維持に一日中拘束されずに済む一方で、世界中の苦痛、成功、可能性、比較対象、未来予測には常時接続できるようになった。
この組み合わせが特殊なんだと思う。
世界は見えるが、自分が触れられる範囲は増えていない
電気、印刷、教育、通信、インターネットによって、普通の一個人でも、
世界で何が起きているか。
ほかの人がどんな人生を送っているか。
社会がどのような構造で動いているか。
人類にどんな問題が残っているか。
自分にはどんな別の可能性があったか。
を、かなりの解像度で知れるようになった。
しかし、知覚範囲の拡大ほどには、行為可能範囲は拡大していない。
世界中の問題は見える。
無数の人生と比較できる。
自分が構造の一部であることも分かる。
でも、実際に変更できる範囲は、自分の身体、仕事、近所、数人の人間関係くらいに留まる。
つまり現代人は、認識上は世界規模なのに、行為上は一個体のままなんだよね。
この知覚と行為の落差が、自意識を過剰に作動させる。
「世界はこうなっている」
「自分はその中のここにいる」
「本当は別の人生もありえた」
「では、自分は何をするべきなのか」
「それでも生きる意味は何なのか」
という自己参照が止まらなくなる。
人間の脳には、直接の知覚から離れて、自伝的記憶、未来、他者の心、自分自身について考える仕組みがある。いわゆるデフォルト・モード・ネットワークは、こうした内的・自己生成的な思考に関わると考えられている。現代の情報環境は、この能力に世界規模の材料を絶えず供給している、と見ることができる。
だからこれは、自意識が単に「発達しすぎた」というより、本来は局所的な共同体の中で使われていた自己認識能力が、地球規模の観測装置と接続された状態なのかもしれない。
苦痛が減ると、自己が消えるわけではない
目の前に明確な危機があるとき、人間は行動モードに入れる。
逃げる。
探す。
守る。
食べる。
直す。
協力する。
そこでは「私は何者なのか」という問いより、「次に何をするか」の方が強い。
しかし、危機が慢性的でも決定的でもなく、生活が完全には満たされてもいない中間状態では、行動によって解消できない注意が余る。
しかも現代社会は、その余った注意に、比較対象、世界の悲劇、他人の成功、無限の選択肢、人生論、診断名、自己改善法、を流し込み続ける。
すると人は、世界を生きるより先に、世界の中で生きている自分を観察するようになる。
行動している私。
評価されている私。
満たされていない私。
人生をうまく使えていない私。
自分が自分の観客になってしまう。
SNSの一部の利用形態が自己対象化や外見への懸念と関連するという研究もあり、現代のメディア環境が「他者から見た自分」を常時意識させる方向へ働くことは、限定的ながら実証的な根拠もある。
動物たちは何を感じているのか
犬、猫、馬、牛、熊も、単なる刺激反応の機械ではない。
記憶があり、予測があり、期待があり、恐怖があり、関係の変化を認識する。動物の意識については不確実性が残るものの、少なくとも哺乳類や鳥類については、何らかの主観的経験を持つ可能性を高く見る研究者が増えている。
また、動物の一部には「分からないときに追加情報を探す」「確信がない選択を避ける」といった、非言語的なメタ認知を示唆する行動も見られる。
人間のように「私は今、自分の人生に迷っている」と物語化できなくても、自分の認識状態をある程度扱っている可能性がある。
ただ、おそらく人間との大きな差は、認識の有無よりも、認識を再帰的な物語へ編成する深さにある。
犬も、
飼い主が帰ってこない。この場所は危険だ。以前ここで痛いことがあった。自分より強い個体がいる。
とは感じるだろう。
でもおそらく、
「自分はなぜこの犬として生まれたのか」
「飼い主との関係は依存なのか愛なのか」
「もっと別の生を選べたのではないか」
「犬社会全体における自分の役割とは何か」
とは、少なくとも人間と同じ形式では考え続けない。
動物の世界は、狭く単純なのではなく、身体と感覚と行為に密着しているのだと思う。
匂い。音。体温。空腹。他個体との距離。安全な場所。次に起こりそうなこと。
それぞれの生物は固有の知覚世界、いわゆる環世界の中に生きている。
私たちは彼らの主観を直接知ることはできず、人間的な自己意識の尺度だけで測ることにも限界がある。
人間だけが世界を持つのではない。
人間は、自分が世界を持っていることまで世界の中に含めてしまう。
そこが苦しさなのかもしれない。
この自認から出る方法はあるのか
あなたが挙げた選択肢は、かなり正確だと思う。
一つは、新しい世界へ行くこと。
環境、仕事、関係、役割、国、共同体、身体の使い方を変える。
これは自意識を否定するのではなく、自意識が報告している不整合を、現実側の変更によって解消しようとする方法。
今いる世界では自分が過剰に観客になってしまうなら、もっと身体と行為が必要になる世界へ移る。
ただ、新世界にも慣れる。
すると再び自分を観察し始める可能性はある。
二つ目は、この自認のまま肯定すること。
世界を完全には変えられない。
可能性の大半は選べない。
自分は一つの身体と時間しか持たない。
それを敗北としてではなく、有限な存在の前提として引き受ける。
これは「今のままで満足しろ」という話ではない。
世界全体を認識できることと、世界全体へ責任を負うことは別である。
と切り分けることだと思う。
三つ目は、自意識が前景化しない時間を意図的に持つこと。
遊び。運動。制作。恋愛。労働。祭り。踊り。音楽。自然。動物との接触。儀式。
これらに共通するのは、自分について考えないことではなく、自分が行為や集団やリズムへ溶け込むこと。
祭りは特に重要で、個人の自己認識を論理的に解決するのではなく、一時的に共同体の身体へ戻す装置だったのだと思う。
「私の人生は正しいのか」と考えている個体を、踊り、音、酒、衣装、反復、集団運動によって、「いま、ここにいる生き物」へ戻す。
薬物も、人類史上は似た機能を担ってきただろうけれど、現代では健康・依存・法的リスクを伴う。重要なのは薬そのものより、固定された自己モデルを一時的に緩める機能の方だと思う。
解決ではなく、往復なのかもしれない
おそらく、自意識を完全に捨てることはできない。
一度、
世界は構造でできている。
自分は偶然ここにいる。
別の生もありえた。
すべては変わり、最後には死ぬ。
と認識してしまえば、昔の無自覚な状態へ完全には戻れない。
だから選択肢は、
新世界へ行くか、
肯定するか、
気を紛らわせて年を取るか、
の三択だけではないと思う。
もう一つある。
自意識を、常に住む場所ではなく、必要なときに戻る観測所にすること。
観測所から世界を見る。
違和感を見つける。
次に触る場所を決める。
そして地上へ降りて、作る、遊ぶ、食べる、眠る、誰かと過ごす。
また必要になったら観測所へ戻る。
問題は自意識があることではない。
観測所に住み着き、人生全体を観測対象にしてしまうことなんだと思う。
現代的な成熟とは、自意識を消すことでも、その全てを肯定することでもなく、
世界を広く認識する能力と、一個の生き物として局所を生きる能力を往復できること
なのかもしれない。
そして、先ほどの神や公共性の話につなげるなら、かつて神、祭り、地域、季節、労働、家族が半ば自動的に担っていたのは、この「観測者から生き物へ戻る経路」だった。
現代は世界を見る装置を爆発的に発達させた。
けれど、見すぎた人間を世界の中へ戻す装置は、まだ十分に作れていない。
そこも、これから再構成しなければならない公共機能の一つなんだと思う。