この知恵で考えられること
昔なら「思いついても形にならなかったもの」が、今はかなり短い時間で、人が触れる・実用できる形まで持っていけるようになっている。
前提1.「創造プロセス」は民主化していない
確かなこと
何かを産むための限界費用は下がった
頭の中のイメージを現実にするコストが明らかに下がった。
昔なら「思いついても形にならなかったもの」が、今はかなり短い時間で、人が触れる・実用できる形まで持っていけるようになっている。
- 試作するコスト
- 言語化するコスト
- 勉強するコスト
- 実装するコスト
- 見せられる形にするコスト
- 小さく実験するコスト
このあたりは本当に下がった。
昔なら飲み会で喋って終わっていたもの、会合で「こういうのあったらいいよね」と言って終わっていたもの、頭の中にしかなかったものが一定生み出される。
ここははっきり変わっている。
産まれたモノを「貰う」キャパは変わらない
人がその創造物を手に取るか・買うか・わざわざ関わるか、という意味で人が何かを買う時に見ているものは、そんなに変わっていない。
- 安定的に使えるか
- すぐ壊れないか
- 続けてくれそうか
- 改善してくれそうか
- 責任を持ってくれそうか
- 周辺コストを下げてくれそうか
人は、作れる人のものを買うのではなく、安心して使い続けられるもの・楽しみ続けられるものを買う。なので、創造が民主化したからといって、「買うニーズ」が民主化したわけでもなければ、貰う側の受け皿の総量が増えたわけでもない。
ここを勘違いすると、時代の読みを誤る。
着実に起こる現象
元より強い人がさらに多角化していく
そもそもこの恩恵は全員に平等に配られているので、既に他のアセットを持っている人が、創造コスト低下の恩恵を大きく受けるという構図がある。
- ブランドがある・流通網がある・お客さんがいる
- 信用がある・組織がある・継続できる体制や力がある
こういう人たちは、新しい道具を手に入れた途端に、多角化しやすくなる。
何かを産むだけではなく・届ける・継続するという2領域もめっちゃムズイ。 ならば、創造で飯を食うという意味では1/3も難易度もコストも変わってない。
だから、創造や創造者として飯を食うという意味では、民主化というより強い人の拡張としてまず現れている。これは自然でやむおえないこと。
「創る側が金を払うエンタメ」の拡大
音楽や演劇の比喩がかなりわかりやすい。
バンドや演劇の界隈には、ものすごく多くの熱量がある。創作もあるし、模倣もあるし、相互影響もあるし、積み上げもある。
でも、流通や還元のインフラが十分に変わらないと、最終的にこうなりやすい。
- それでは飯が食えない
- 出演する側が自腹を切る
- 発散としては楽しい
- でも社会構造としては大きく変わらない
- 一部の特異点を超えた人だけが前に出る
創る人口が増えて、貰う人口が変わらないなら音楽や演劇と同じ構図に、もっと幅広いジャンルが到達する。
それは良いことでもあるし、悪いことでもある。
「それでいいのか?」
- 創る行為がこんなに変わったのに、こんなに面白くない世界が期待されるはずはないし、そんな世界を強欲な人類が黙って許すような気はしない。
整理
民主化した行動そのものは主役にならない
歴史:移動の民主化によって起きたのは「ネットワークの成立」である
蒸気機関車や自転車が登場して、長距離移動が民主化した。
それによって、長距離移動を生業にする人口(馬車や飛脚)が増えたか?というと違う。
海を渡ることが昔は命がけで、大金を払ってようやくできる行為だった状態から、土日に2万円で行える行為になったとしても、それで「海を渡るビジネスに誰でも入れますよ!」となったわけではない。
世界で流行っている「生成AIを使えばあなたもXXに!」は「あなたも飛脚に!」という構図に見える。
本質的に起きたのは、「人は移動するものだ」という前提が社会に埋め込まれたことである。
つまり、人は他の地域に行く・人は他の文化圏に触れる・人は行き来するという前提が、例外ではなく常態になった。
具体的には、
- 観光
- 多言語対応
- 外国人向けの導線設計
- 文化を越えた価値の翻訳
- 移動者向けのサービス
- 越境前提のビジネス
といったものが生まれた。
「事前にお願いもしていないのに、お店のメニューが英語版が用意されている」
このような関係範囲として認識され対応し合う関係をネットワークとして成立している状態だと考えている。
本当に問われているのは「人は創造するものだ」という前提でのネットワーク設計
変化というか人間側が考えなきゃいけないことの本体はここだと思う。
ここまでで本当に起きている変化
観測されなかった想像が、観測可能になった
いちばん重要なのはこれだと思う。
これまで、世の中には本来無限にあったはずの想像がある。
- 飲み会で喋って終わるもの
- 自分の頭の中にしかないもの
- 仲間内の雑談で消えるもの
- 途中までは感じているのに、形にできないもの
こういうものが大量にあった。
今起きている変化は、そういうものが、 他人が観測でき、理解でき、活用でき、模倣できる形にまで持っていけるようになった ということだ。
ここはかなり大きい。
小さな創造を、趣味のように楽しめるようになった
もう一つの変化は、 少しサイズのある創造を趣味のように遊べるようになったこと だ。
これは軽く見られがちだけど、実は結構重要だと思う。
なぜなら、創造を日常的な行為に近づけるからだ。 ただし、それ単体では社会変化にはまだ足りない。
その遊びが、観測され、受け取られ、つながり、続いていく構造が必要になる。
モジュール的な貢献が現実味を帯びてきた
かつては、モジュール開発やパーツ貢献のようなものは、むしろ完成品を作ることより高度だった場面が多い。 文脈が要るし、接続先が要るし、規格も要る。
でも今は、創造の粒度を小さくし、部分として差し出すことの現実味が増している。
- コンセプトだけ出す
- 叩き台だけ置く
- UIの方向性だけ見せる
- 言葉の翻訳だけやる
- 怖さを減らす
- ある文化圏向けに適応する
こういう行為も、本来は十分に創造だ。 むしろ多くの発明や進歩は、こうした部品の創造によって起きている。
ここから必要になるのは「作るインフラ」ではなく「扱うインフラ」である
小さいまま価値になる回路が必要
創造が民主化しても、それだけでは足りない。 必要なのは、小さいまま価値になる回路だ。
つまり、
- 完成していなくても置ける
- 部分でも観測される
- 他人が続きやすい
- 再利用しやすい
- 誰が何に関わったかが見える
- 何かが起きた時に還元される
という状態がいる。
これがないと、小さく作っても小さく消える。
問題は「どう作るか」より「どう扱い合うか」にある
ここで大事なのは、問題の重心が「創る」側から「扱う」側に移ることだ。
もう少し強く言うと、 いま足りていないのは、創造のインフラではなく、創造の扱いのインフラだと思う。
- 生まれたものをどう見るか
- 途中のものをどう価値づけるか
- 他人の続きをどう普通にするか
- 模倣や改変をどう扱うか
- 感謝や影響や関係をどう記録するか
- 誰が何を受け取るかをどう決めるか
このあたりが未整備なままだと、創造は増えても、社会は変わらない。
倫理と社会システムの両方が必要
ここはどちらか一方では足りない。
必要なのは、
- 倫理
- 未完成を恥としない
- 模倣を窃盗とだけみなさない
- 小さな貢献を価値として扱う
- 他人の肩に乗ることを肯定する
- 社会システム
- 記録できる
- 分岐できる
- 系譜が見える
- 分配できる
- 依存や貢献を追える
- 安全性をある程度担保できる
この両方が揃って初めて、創造の民主化が「趣味の幅」以上の変化になる。
結局、何を言いたいのか
創造の民主化は、創造産業への参入権の民主化ではない
ここまでを一文で言うなら、こうなる。
創造の民主化は、創造産業への参入権の民主化ではない。それは、創造が広く発生することを前提に社会の側を更新せよ、という要請である。
AIや新しい道具によって、作ることの限界費用は確かに下がった。 でも、それだけでは世界はあまり変わらない。
変わるためには、
- 小さい創造が観測されること
- 途中の創造が残ること
- 他人が続けやすいこと
- 感謝と系譜が軽く記録されること
- 分配や還元が流れに沿って起きること
が必要になる。
変えたいのは、創造の産業ではなく、創造が起きる社会の方である
僕が見ているのは、「みんながプロのクリエイターになれる世界」ではない。 「みんなが起業家になれる世界」でもない。
そうではなくて、創造が日常的に発生することを前提に、社会の側の受け取り方・残し方・扱い方を変えることだ。
移動が民主化した時に必要だったのは、移動産業への参入権の民主化ではなく、移動しうる人間を前提とした社会の更新だった。 創造も同じだ。
創造は、やりきるものではなく、渡され続けるものになる
最後に、この構想の核をもう一度だけ書く。
- 創造は、完成するものではなく、続いていくものである
- 創造は、個人の所有物ではなく、系譜の中を流れ続けるものである
- 創造は、やりきらなくてもいい、ではなく、やりきらなくても他人の中で続く前提に立つものである
- 創造は、新しいものをゼロから生むことではなく、他人の肩に乗って自分の現実に合わせることでもある
- 創造は、個人の負担ではなく、社会の呼吸になりうる
この世界を、単なる比喩ではなく、手に取れる現実としてどう作るか。 たぶん、今考えていることの中心はそこにある。