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ゲームと現実の境界はどこにあるのか

ゲームと現実はまったく別物だ、という感覚は多くの人にとって自明だと思う。

この知恵で考えられること

ゲームと現実はまったく別物だ、という感覚は多くの人にとって自明だと思う。

ゲームと現実はまったく別物だ、という感覚は多くの人にとって自明だと思う。

ゲームは娯楽で、現実は人生。ゲームは遊びで、現実は仕事。

でも本当にそうだろうか。

ポケモンGO、MMO、リモートワーク、SNS、Webインターフェース越しの協働。

これらを並べたとき、構造的な違いを説明できるだろうか。

操作し、数値があり、他者と関わり、成果や評価が返ってくる。

それはゲームと何が違うのか、ずっと引っかかっていた。

ゲームかどうかは中心がどこにあるか

行為そのものがゲームか現実かを決めているわけではない。

違いはもっと単純で、「何を中心に合意しているか」だと思っている。

フィクションを中心に合意している世界では、

これはゲームだ、虚構だ、という前提の上で人は没入する。

一方でリアリティを中心に合意している世界では、

それがどれだけゲーム的でも「人生」や「仕事」になる。

同じ行為でも、どちらを中心に置くかで意味は反転する。

ゲームが人生になってしまう瞬間

MMOが社会問題になったとき、よく「ゲームは麻薬だ」と言われた。

でも問題だったのは、ゲームそのものより、

フィクションとして成立していた世界から強制的に引き戻したことだと思う。

ゲームを「ただの娯楽」と軽く扱う認識には、ずっと違和感がある。

多くのエンジニアや制作者は、どうでもいいものを作っているつもりはない。

運命だと思って作っている人間も、確かにいる。

現実だと思われているものもフィクションだ

仕事、年収、野球部のレギュラー争い、結婚式、節分、バレンタイン。

これらは現実そのものに見えるが、実際にはフィクションとして合意されているから回っている。

ダイヤモンドも、ブランドも、儀式も、フィクションに人を連れていくマーケティングの結果だ。

必要最低限の演出で人の行動が変わるなら、それで成立してしまう。

自分はフィクションを中心に生きている

自分の立ち位置ははっきりしている。

遊びも仕事も、中心はフィクションだ。

現実への関心は強いが、プレイヤーとしてはフィクションにいたい。

結果として現実が変わるフィクションが一番好き。

現実を現実だと思ってやった瞬間、途端につまらなくなる。

自分をプレイしている、という感覚のほうがしっくりくる。

問うべきなのは境界ではない

ゲームと現実を分ける意味は、もうあまりない。

問うべきなのは「これはゲームか?」ではなく、「何をフィクションとして合意するか」とその合意状態へのプロセスデザインができていればオープンワールドなど作らなくても良い。

その代表例がおままごと。

その設計こそが、これからの創作であり、仕事であり、社会をどう扱うかという話なのだと思っている。

ゲームと現実の境界はどこにあるのか|Tinker